訃報


25年の長きに亘って、キーボーディストとして、また作曲家として、O.L.H.を支え続けた盟友・曽根川昭雄が2020年8月24日永眠致しました。享年52歳。ここに生前のご厚誼を深謝し、謹んでお知らせ致します。

O.L.H.


チビの俺がいて、デブのaCKyがいて、そこにメガネの君がいてくれた。だから俺達は俺達になれたんだね。

代沢五郎

曽根ちゃん、早いよ。。ライブ「天国まであと数回の夜」が1回になっちゃったじゃん。。OLHに入って20数年、スタジオでのリハ、本番ライブの時にキーボードを弾いている曽根ちゃんをチラチラ見るのが僕の密かな楽しみでした。曽根ちゃん、本当にありがとうございました。

田辺晋一

酒好きの自分は同類の曽根ちゃんと打ち上げで席が近いことが多かった。
数年前の打ち上げで、もずく酢を食べながら、”こういうのが嬉しい年頃なんすよね”、と言っていた。
よく考えたら、自分より9歳も年下の曽根ちゃんはまだそんな年頃ではなかったのに。
老成していたのか?そうだとしても死は早すぎる。。。

曽根ちゃんは些細な内容でも必ず反応してくれる優しさを持ってました。
演奏は音が小さく、口数もそんなに多くないけど、いつも静かなつっこみを入れてくる。
そのつっこみは黒くてサビが効いていた。背後に佇む影の人でした。

O.L.H.で20年近くも一緒に活動して、曽根ちゃんが居なかった記憶が無い。
都内だけでなく関西ツアーやら横浜でのお泊りライブなんかもありました。
32歳以降の曽根ちゃんと随分濃厚に行動を共にし膨大な話を交わしてきた。
他愛ないことが多かったし、そして大事な事もありました・・・書けないけど。
ほんとうにいろんなことがありました。いろいろ思い出しています。

西村哲也

なんだよ。随分早いじゃんか。
淡々と飄々としてた曽根ちゃんにしては。
まさかシムケンの後追い?
好きだったもんな。
滅多に笑わないお父さんが食事中シムケンで吹いたって話、懐かしそうにしてたし。

結局総選挙で、いつも最後にアッキーに逆転されてトップになれなかったのはやっぱり心残り?
あと5キロ、いや10キロ痩せれば…
センター取りたかったな!w

でも自分で身体動かすのは嫌いなくせに、見るのは好きだったよね。
夜中メールでお互い不謹慎な事言って、特に女子スポ。
そんなのも、もう出来ないのか。
いや、きっと曽根ちゃんなら向こうでもやるだろw

だけどさ、ライブ後や地方行った時にいつも1番最後まで飲みに付き合ってくれてたなぁ。 これからの相手探さなきゃじゃんかよ。困るぞ。

で、次のリハは10月予定してるからな!
終わったら当然飲みだ!
いつものメガハイボールだろ?

ありがとね。

横銭ユージ

たのむよ曽根ちゃん、きいてないよ~。銭ちゃんどうすんねん、おいてくなよなぁ。たのむからうちあげだけでもこいよな。たのむよ曽根ちゃん、曲のキーわからないとき、いまさらだれにきけばいいのさ。
でもまぁ酒は曽根ちゃんのぶんまでのんだげるからまかせといて。いつでもきていいし。曽根ちゃんならこわくないし。
ところでそっちはどですか?あついすか?
あっ!そ~だ!俺のしりあいに宮田っつうのと松永っつうのと吉良っつうめっぽううまいひとたちがいるので、「おみそしる」の譜面でもわたしてリハしといてよん。イカした天国バンド。そのうちうたいにいくさぁ。
「死んだら死にきり」なんていわないでたのむよ曽根ちゃん。

光永巌

曽根ちゃん。。。
リハの時はいつも曽根ちゃんが隣にいて、アッキーさんや品川さんにいじられながらもニコニコしてる感じが好きでした。
コーラスのラインを教えてもらったり、練習にも付き合ってくれて、これから誰に頼めばいーんだろう、、、
未だに実感が湧きません、、、
もう一緒にステージに立てないなんて、幽霊になって出てきても、みんな「曽根ちゃん遅いよー」って言うと思うので、参加して下さい。待ってます!

西村史子

自分より若い奴が先に逝くのは倍悲しい パチンコでも行こかな

SASUKE

曽根さん

人と打ち解けるのに、時間のかかる私は、
ようやく最近のライブ打ち上げで、ようやく曽根さんとも話し出来たなーって思ってました。

塩辛い物が好きな事、
昔面影で参加したフェスの思い出話、
海外に行ったメンバーの話、、、。

ライブの時に曽根さんが『栄光は君に輝く』を弾いて、アッキーさんがMCするくだり、今でも大好きです。
覚えてます?

曽根さーん!そねっちさーん!

入山和代

そねちゃんへ
数えたら20年…バンドと共に楽しい時間を過ごして、いつもお世話になって、また次のライヴもそうだと思ってしまう、そうじゃないと思うとほんと寂しい。
いつもの挨拶になってしまいますが、お疲れ様でした!
ありがとうございました。

Kaoru

曽根さんへ
4年前の12/30、かなり寒い日の夜、帰省のため北陸新幹線のホームで並んでたら偶然にも声をかけてくれましたね。「小澤、指定無理だし、あさま(各停)の方が確実に座れるから一緒に帰ろう。」
フリース姿で、角ハイのロング缶をNEWDAYSの袋に3本下げてる曽根さんにまずびっくりしました。(荷物少なっ!そんなに飲むんだあ。寒くないのかなぁ。と) 2人掛けの自由席に座り、乾杯すると、曽根さんの持ち前の聞き上手のおかげで、僕の人生相談になってしまいました。
当時、僕は収入が少ないくせに浮気しまくったせいで、同棲していた女性が高収入の男を作って出て行ってしまった。しかも、家財道具もカーテンも持って行かれて、ベットマットだけあった。この先も、仕事少なかったらどう生きていったらいいのか。など、終始笑いながら聞いてくれましたね。
そこで曽根さんは「落ち込んでる場合じゃねーよ。俺たち、いつ死ぬか分かんないんだから、毎日楽しく生きなきゃだめだろ。」と。
本当にビールが身に染みました。
「でもな、一つだけ不安があるんだよなー。よく映画とかでさあ、死んだらパソコンのデータ勝手に消してくれるやつあるじゃん。あれ、あったらいいよなぁ。」「ちなみに、ハードディスクには何入ってるんですか、絶対に言わないので、内緒で教えてくださいよー。」「それは言えねーよ。」
何が入ってたのか、本当に気になります。

小澤篤士

「俺たちがいつまでも生きてると思うなよ」
aCKyさんがお客さんに言った
下北沢でのOLHのライブ
だからって、ほんとにいなくなるなんて

私は曽根さんとその打ち上げで
席が隣になり
はじめてゆっくり話せたばかり

いつも後ろから見守ってて
その前でaCKyさんが自由にしてる
そのバランスが絶妙で
見ててほっこりしてました

Twitterで最後に
「雨ごいすー」って
エアコンが水漏れして
鍋で対処したって
コロナ禍ではあるが普通の日々の中で
最期に何をおもったのかなぁ

曽根さん
もっとお話ししたかったです
ステージに出てきて!
待ってます。
ありがとうございました

cho まゆか

ライブでの「愛のキサナドゥ」、冒頭は曽根さんとaCKyさんの2人で始まります。
aCKyさんがびびる程ためながら歌って、曽根さんがニヤニヤしつつそれに合わせる、このやりとりを見るのがとても好きでした。何度もためる、何度も寄り添う。
本番だけに止らず、リハーサルでもやってましたよね。

そして曽根さんの数々の神フレーズは頭に焼きついています。O.L.H.の歌を口ずさむ時、曽根さんのキーボードフレーズも必ずセットで歌います。それくらい印象が強い神フレーズ達です。

もう見られない、もう聴けない・・・正直それがどういうことなのか飲み込めずにいます。 曽根さん、どうかゆっくり休んでくださいね。

岡村トモ子

そねっちへ。
はじめて面影で会ってからもう25年。いつもリズム隊とホーンズの橋渡しをしてくれてて、怖い人達がいっぱいいるバンドの中でいつももの静かで優しくて、ラーメン小池さんにちょっと、いや、だいぶ似ててすごい親しみやすくて、かなり癒しの存在でした。私が訳もわからず初めてのパソコンで着メロ作成チーム始めた時は、すごいいっぱい助けてくれて、本当に困った時のソネ頼みでした。話すときはいつも「カオリンさぁ〜」から始まって、その声色とイントネーションはくっきり脳味噌に焼き付いています。
ソネッチとのやり取りを色々見返してたら、最後のやりとりはテンガについてだったね。確か日本に帰ったとき、面影にと差し入れで頂いたそねっちの分を一個ぶん取って来たような…。
あ、Twitterみたよ。マンハッタンで暴動が起きてたの心配してくれてありがとう。うちのほうは全然平気だったよ〜!Twitterにも書き込みしといたけど、返信くれなくていいからね〜!
じゃあ、またねー!しばらく会えないけど、元気でね!

ラブラブラッキーホーンズ サックス カオリ

そねっち、もうずいぶんと会ってなかったけど、もうずっと会えないなんて!!
信じられません。
そねっちのラーメン小池さんのアイコンのTwitter見つけました。
ほぼ毎日書き込みしてたね。もっと早くに気づいてコンタクト取りたかった!
白衣を着てキーボード弾いてるそねっち、
ラーメンも食べてるかな。
あちらの世界でも楽しんでください!
どうか、安らかに。

初代ラブラブラッキーホーンズ トランペット フミエ

ほんと何も知らなかった俺に
コードの仕組み教えてくれたのも
打ち込みのやり方教えてくれたのも
請求書の書き方教えてくれたのも
曽根ちゃんだね
三茶の家で
ぼやきながらも
根気よく付き合ってくれて
結局ふたりで焼酎ポカリ割呑んじゃって
起きたら全部忘れちゃうんだけどさ

リハに行く時だったかな?
車内で「コンパス」のデモ聞かせてさ

めちゃくちゃ褒めてくれたの
すげー嬉しかったんだよ
246の渋滞の中
いまも覚えてる

あの曲を何倍も何倍もステキに演奏してくれてありがとね
面影に入ってくれてありがとね
俺たちは「ステキ係」だから
困ったらまた相談するよ

奥村”D.I.E.”大 (wash?)

そねちゃんのばか・・・

川上次郎

「withコロナになって以来、電車に乗ったら女の人の足だけ見るようになった。だって顔はマスクで隠れてるんだもん」ってサイテーな発言で私をドンびきさせてくれたばっかりなのに・・・・・・。
そねちゃんのカラオケ十八番「メモリーグラス」(by堀江淳)も、もう聞けないのか。
またキーボード背負って、「ういっす」って居酒屋の扉開けて来そうなのに。
もう!そねちゃん、急すぎ!寂しすぎ!

町山七重

曽根川さん、突然のことで実感もなく本当にびっくりしています。
“歌謡倫理委員会” にてご一緒させていただき、メンバー、スタッフの皆様に暖かく迎えていただいて。 
毎回の打ち上げなどで交わしたささいなお話しがいまだに心に残っています。
続きはそちらでまた。
Rest in PARADISE.
ご冥福をお祈りいたします。

ジーナ

その報せを受けて「あーフェイクニュースだこれ、タチの悪いイタズラだ」と、けっこう経ちますが、まだそんなふうに思い続けています。

次のライブかイベントの打ち上げで、また「どう?」なんて言いながら何となく隣の席に座ってくれて、ゲーム、健康、下半身…朗らかに無為な話ができるものだと、まだそんなふうに思い続けています。

ぜんぜん信じられなくて、きっとまたすぐにでも会えるんだろうなと、バカみたいなリプライ送れば返事が来るんだろうなと、まだ、そんなふうに。

贋作

ワタシは君のことを『ちま』と呼んでいた。何故だかも忘れたし、しかもつい先日まですっかり忘れていた。面影がらみで時折り思い出すも、その時は『そねちゃん』として思い出していたから。
東日本震災のとき、新宿区で亡くなった人がいると聞き『まさか?』と思うほど、離れてからもなんだか気にかけていたよ。Twitterで生存確認できてほっとする、みたいな。ここ数ヶ月は自分もなんだかわしゃわしゃしてたから…嗚呼油断したなああ…まあ、気がかりな事あったとしても、今やどうすることも出来んかっただろうな、君も知っての通り、ワタシはそうゆうオンナだから。
ちょっとだけ、秘密を共有する者として、ワタシも墓場まで持っていくことにするよ、あんな事やこんな事、君は守ってくれたみたいだから。
で、ひとつだけ、綺麗事書くならあの頃のワタシが一番本質に近いワタシだった。『素』である事の居心地の良さと怖さを教えてくれたよね。良くも悪くも、こればかりはもう他の人と共有できんのだよ。
だからね、ぽっかりと穴が開いてしまったのだよ。

出雲麻紀子

 曽根ちゃんとの出会いは、約25年前(四半世紀!)当時うちのバンドに所属していたギターの奥村”D.I.E.”大(現:wash?)君が、別のバンドで一緒だった曽根ちゃんを、何度も「面影に入れようよー。」と言っていて、ならば!と、新しいメンバーとして加入してもらったのがきっかけです。

 その頃、年齢がバラバラだったメンバーの中で、唯一、歳が一緒だったこともあり、聞いてきた音楽など、バックボーンが似ていて、とにかく意思疎通が早かったし、なにしろなんだか判らない安心感がありました。
 公私問わず、色々な場面で、全てが、「言わずもがな」でいられる感覚。そしてその感覚は、その後25年間ずーっと変わらず、あたりまえのように続いていたのですが、ただ、それはもう、あまりにもあたりまえすぎたため、ことさら僕に、それを幸せなことと感じさせてはいなかったのです…
 とにかく、今回、ステージでもどこでも、「曽根ちゃんが居る、っていう安心感」、いや違うな、「曽根ちゃんは居る、っていう安心感」、そんなものに無意識に包まれていた事実に、情けないことに、僕は初めて気づいたのでした。

 思い出すのは、2007年、青山のCAYと言うライブハウスで、今をときめくPerfumeと共演したとき、リハで3人が歌い踊る姿を、誰も居ない客席の一等席で、曽根ちゃんと2人っきりだけで見てて、「いやー、面影やってて良かったわ。」って言ったことw。その後、「いやおうなしに」という河原 雅彦さん演出のお芝居に携わった折に、主演の小泉 今日子さんとお会いできたときも同じようなこと言ってたけど…w って、そんなときだけかよw これから先もまた、曽根ちゃんに「面影やってて良かったわ。」って台詞を言わせたかった…

 昔の人が言うことは正しいです。「親孝行したいときに親はなし」、「曽根ちゃん孝行したいときに、曽根ちゃんはなし」です。
 つか、だって、しょうがないじゃないですか、恋人ならまだしも、日本人的なメンタリティで、心の奥底で大切だと思っているヒトに、普段、なんのきっかけもなく、あらたまって、「いつも感謝してるよ。」とか、「おまえが大切だよ。」とか、普通言わないじゃないですか。それに、そうですよ、あれですよ、曽根ちゃんに対しては俺、いつも、あの、相撲用語で言うところの「かわいがり」的な、イジリのコミュニケーション(いや、実際に殴ったりしてた訳じゃないすよ…?)でしたから、そりゃ言わないっすよ、そんなもん、しょうがないじゃないですか、だって、マジ可愛いんだから、そうしてたんだもの…

 でも、まあ…
 言いたかったよね、ちゃんと。
 つか、言わずとも伝わってたかな…?
 め、飯とかは、いつも奢ってたしな…

 お互いいい歳こいて一人もんでさ、同じように基礎疾患があって、こんなじゃいつか孤独死しちゃうからって、2人ともちゃんと病院通って気をつけてたのに…
 ただこれは、俺の心の楔になったし、「アッキー、気をつけろよ!」って最後のメッセージととらえて、これからも養生するから。そうして、曽根ちゃんを一生忘れないでいることくらいだけど、それを、今後の曽根ちゃんへの孝行にするから…



 こんなご時世でなければ、追悼のイベントなどを行い、大勢の皆さまで曽根ちゃんを偲びたいのはやまやまなんです。残念ながら、それが今は叶えられないことを、どうかお許しください。
 なので、彼を知ってる皆さま、彼のプレイを見たり聞いたりしたことのある皆さまも、たまにでいいです。どうかこの先、CDでもサブスクでもなんでも、彼のプレイをちょろっとでも聞いて、あの「ラーメン大好き小池さん」みたいだった曽根ちゃんのことを、ほんの少しでも思い出してもらえれば… それが僕のささやかな願いです。

aCKy